マラヤ共産党書記長陳平の死(2013.9.21)
(「マレーシア世界の窓」のコーナーでは、マレーシアとそれを取り巻く世界の成り立ち・かたち・動きをJAMS会員が解説します。会員の投稿を歓迎します。)

マラヤ共産党書記長陳平の死(東條哲郎)

2013年9月16日、筆者は半年ぶりにマレーシアを訪問し、クアラルンプール市内にいた。マレーシア成立50周年の祝祭モードに包まれていたこの日、バンコクで一人の老人が亡くなった。マラヤ共産党書記長の陳平(Chin Peng)、享年90歳であった。

1924年、ペラ州に生まれた陳平(本名王文華Ong Boon Hua)は、1940年にマラヤ共産党に入党した。折しも、華人社会を中心に日中戦争に伴う抗日運動が活発となっており、翌1941年12月に日本軍がマレー半島に上陸して占領を開始すると、陳平は同党が組織したマラヤ人民抗日軍(MPAJA)の中央軍事委員として抗日ゲリラを指導した。MPAJAは華人が中心であったが、日本占領下で民衆の支持を得て着実に力を伸ばし、終戦時には最大の政治・軍事組織となっていた。日本の占領が終わり、イギリスが復帰すると、MPAJAはイギリスとの対立ではなく協調路線を模索し、1945年12月に解散した。

しかし、戦後の冷戦体制下で、イギリスとマラヤ共産党の対立は徐々に高まっていった。陳平は1947年、マラヤ共産党の書記長に就任したが、この時期、マラヤ共産党による合法的な反植民地闘争がイギリスの弾圧で行き詰まりを見せており、1948年6月にマラヤ共産党は武装闘争路線に転換した。これに対し、マラヤ連邦政府は非常事態宣言を発令し、マラヤ共産党を非合法化し、鎮圧に乗り出した。陳平は、抗英闘争の指導者として活動したが、英軍の武力の前に闘争の拡大は徐々に困難となった。1955年、バリンで行なわれたマラヤ連邦自治政府との和平会議が決裂すると陳平は公開の場から姿を消し、ジャングルを中心としたゲリラ闘争を指導、1961年に中国に脱出した後は中国から武装闘争を指導した。武装闘争が行き詰まる中、1980年代初頭から陳平はマレーシア政府との話し合いを模索し、1989年12月、南タイのハジャイで和平協定が成立し、マラヤ共産党の武装闘争が終わったのである。

和平成立後、陳平はマレーシア帰国を禁じられ、タイを中心に生活していた。陳平は近年、死ぬ時は祖国マレーシアで死にたいと度々訴えたが、軍・警察幹部やUMNO指導者などの強い反対のため帰国が認めらないままバンコクで客死することとなった。当時の警察幹部の一人、ダト・スリ・ユエン(Dato’ Seri Yuen Yuet Leng)は、その自伝的著作『Nation before Self』において、自身の生い立ちや教育、ペラなどにおける対共産ゲリラとの戦闘を詳述した後、彼自身が身命を賭してマラヤ共産党から守った国とは何かを論じている。

オランダとの独立戦争を経て独立を勝ち取ったインドネシアなどと異なり、平和的独立を果たしたマレーシアにおいて、軍や警察で前線に立っていた人々は、マラヤ連邦独立、そしてマレーシア形成期におけるマラヤ共産党鎮圧での自らの貢献を非常に重視しており、当時の敵対勢力の指導者であった陳平の帰国を認めることは到底出来なかったのである。

他方、2000年代に入り、陳平を含むマラヤ共産党幹部などから、その思想や活動についての書籍が発表されるとともに、研究者による専門書も出版され、その中にはマレー人左派の人々が書いたものや彼らの事跡を記したものもある。これらの出版により、これまで知られてこなかった彼らの思想や活動、特にマレーシアという国に対する彼らの思いが人々の間に知られるようになるとともに、マラヤ共産党や左派が必ずしも華人のみの集団ではなく、他の民族も関わっていたことが再認識された。この成果により、これまでの学校教育を通じて共産党や左派に対して否定的な見方のみが存在していた比較的若い世代のマレー人の中からも、政府に対立していた人々もマレーシアに対する愛国の念は変わらず、その上で、自身の思想・信条に従い行動したのだと再評価する声が出てきた。

近年では、2011年8月21日、野党マレーシア・イスラーム党の副総裁補モハマド・サブが、ブキッ・クポン事件(Bukit Kepong Incident)を起こしたリーダーでマラヤ共産党のマット・インドラはイギリス植民地統治に対する抵抗運動(抗英運動)の真の英雄であると発言し、大きな話題となった。

ブキッ・クポン事件とは、1950年2月23日未明、武装したマラヤ共産党のゲリラがジョホール州ムアルから約60km離れたブキッ・クポン警察署を襲撃した事件である。襲撃したマラヤ共産党ゲリラは約200人とも言われ、ゲリラの包囲を受けた警察側が投降を拒んだために銃撃戦となり、14名の警察官の他、警察官の家族など25名が殺され、ゲリラ側にも多数の死者が出た。この事件の首謀者を野党指導者であるモハマド・サブが抗英の英雄であると評価したことに対し、ナジブ首相を筆頭に与党政治家が反応し、警察側遺族がモハマド・サブに対して名誉毀損で訴訟を起こすなど、新聞紙上やインターネットの政治サイトをにぎやかせた。

マラヤ連邦独立から56年、マレーシア成立から50年が経ち、この時期に活躍した人々の記憶が徐々に薄れている。マラヤ共産党、軍・警察の双方で活躍した人々の記録を残すことがますます重要となっていくことは言を俟たないが、マレーシアにおいて誰が独立の英雄なのかというテーマは、マレーシアの現代政治・社会の関心を強く反映し、未だにしばしば与野党幹部から発言がなされている。ただし、陳平が最後まで帰国することができずバンコクで客死したこと自体が、国論を二分する与野党の論争の的となる、ないし、陳平の死がマレーシアにおける左派の動きを活発化するといった現代政治を動かす要因になるとは考えられない。その意味で、陳平の死は、戦後史の一つの時代が過ぎ去ろうとしていることを示していると言えよう。

■2013.9.21東條哲郎(立教大学兼任講師・東京大学人文社会系研究科研究員)

日本マレーシア学会(JAMS)


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