TPPをめぐるマレーシアの国内政治(2013.9.4)
(「マレーシア世界の窓」のコーナーでは、マレーシアとそれを取り巻く世界の成り立ち・かたち・動きをJAMS会員が解説します。会員の投稿を歓迎します。)

TPPをめぐるマレーシアの国内政治:外交の「民主化」と「守り」の交渉(鈴木絢女)

初期ナジブ政権の外交・経済政策としてのTPP

マレーシアは、2010年3月に環太平洋パートナーシップ(Trans-Pacific Partnership: TPP)交渉への参加を決定し、同年10月にブルネイで開かれた第三回会合から交渉に出席している。マレーシアの国際貿易の約3分の1を占めるTPP加盟国・交渉国とのFTAによって、8億人規模の国外市場へのアクセスが可能になるとともに、国内企業の競争力を高め、高付加価値製品の生産国および投資先としての地位を確立するというのがマレーシア政府のねらいである。

先住民族ブミプトラへの優遇政策という40年来の遺産を抱えつつも、マレーシアがTPP交渉参加に踏み切った背景には、情報通信やバイオテクノロジー分野の技術や資本と、東アジアにおけるバランサーとしての役割を期待してアメリカに接近するナジブ・ラザク首相の外交戦略があった。また、グローバル・プレイヤーになりつつある国営石油会社ペトロナスや政府系投資会社カザナ・ナショナル、YTLコーポレーション、ゲンティン・グループに代表されるマレーシアのグローバル企業のためのビジネス環境創出という狙いもある。さらに、TPP交渉への参加意志表明とほぼ同じ時期にナジブが発表した新経済政策(New Economic Model: NEM)は、従来のブミプトラへの優遇政策を是正し、より自由で競争的な経済環境を創出することを謳っている。TPP交渉参加には、外からのプレッシャーによって国内の構造改革を進め、マレーシアを高所得国家入りさせようとするナジブ政権の思いも透けて見えていた。

反対論の噴出

TPP交渉参加をめぐり長らく賛否両論が噴出していた日本の状況とは異なり、マレーシアにおいては、過去3年間、TPPをめぐる議論はそれほどなかった。今年5月まで国内の関心が選挙一色だったことが最も大きな理由だろう。これに加えて、そもそもマレーシアにおいて国際条約の締結および批准はもっぱら行政府の権限であるという事情もある。そのため、交渉担当の国際貿易産業省(Ministry of Industry and Trade: MITI)その他関係省庁とマレーシア製造業連合や国際商工業会議所などのビジネスセクターとの審議がTPPをめぐる主な議論の場であり、条約批准権限を持たない議会は蚊帳の外に置かれてきた。

しかし、今年6月以降、漏洩した交渉文書に基づくTPP締結反対の声がにわかに強くなりだした。反対の声を上げているのは、野党、マレーシア労働組合連合などの労働組合、マレーシアエイズ協議会(Malaysian AIDS Council)をはじめとする保健・医療分野の団体、そして中小企業を中心とするブミプトラ企業から成るマレー人経済行動委員会(Malay Economic Action Council: MEAC)である。これらの団体は、人権団体や消費者組合、イスラーム団体などとともに「TPP反対連合(Badan Bertindak Bantah TPPA)」を組織し、議会や米国大使館でのデモや野党議員を通じた反対表明を行ってきた。

反対派が最も声高に叫ぶのが、知的財産権保護と投資家対国家紛争解決(Investor-State Dispute Settlement: ISDS)への異議である。たとえば、パテントの長期化によりジェネリック薬品へのアクセスが制限され、医療コストが上昇する可能性が指摘されている。また、投資家と投資受入国の間の投資紛争の解決手続きであるISDSに関しては、外国のタバコ、医療品、食品会社等が国民の健康や生活を守るための政策を協定違反として訴える可能性があり、公共政策の実施が困難になってしまうことや、投資受入国の司法制度のみならず国際仲裁による紛争解決も予定されていることから、国家主権の侵害とすらいわれている。この他、TPP交渉過程の秘匿性に加えて、政府による労働者保護や訓練、最低賃金等に異議が唱えられる可能性があることへの懸念も表明されている。

多様な背景の反対派を架橋する以上のような論点に加えて、マレー人商業会議所やMEACなどのブミプトラ企業家グループは、ブミプトラ保護の継続という観点からTPPに反対している。たとえば、MEACは、輸入関税撤廃による国内のブミプトラ企業や中小企業の競争力低下を懸念し、「TPP反対連合」において主導的役割を果たしている。また、国有企業(State-Owned Enterprises: SOEs)や政府が株式を保有する政府系企業(Government-linked companies: GLCs)に対しても何らかの制限がかかることが予測され、SOEsやGLCsを通じて優先的に政府調達を割り当てられてきたブミプトラ企業からの反対は非常に強い。これとは別に、華人商工会議所連合が中国のTPP参加を呼びかけている。

このような団体の動きを受けて、与野党議員からもTPPへの懸念や反対が表明されるようになった。野党リーダーのアンワル・イブラヒムは、TPPが政府の役割を制限する一方で企業の優位を確立することを目的としたもので、アメリカの覇権推進の道具であるとして、国益に叶わない協定には反対すると表明している。このようなTPPそのものへの反対とは別に、野党は外交分野における国内の政治過程の民主化を求めている。議会では、消費者団体や労働組合など国内の関係団体との審議を持たぬままにTPP交渉を進めたMITIへの批判が集まった。また、マレーシアがこれまでに結んだいずれのFTAにおいても議会審議がなかったことを問題視する野党議員らは、TPPに関する超党派の議会特別委員会設置を要請した。結局、委員会の設置は却下されたものの、与野党で形成した議員クラブが国内団体と協力しながら交渉過程を監視している。

「民主化」と「守り」の交渉

このような反対の波を受け、MITIは、「反対連合」との協議や一般向けの「TPPオープンデイ」を開催したうえで、より多くの関係団体との協議を本格化すること、いわば外交の「民主化」を約束した。さらに、政府は、8月15日の特別閣議において、(1)国全体に加え、中小企業およびブミプトラ企業に対するTPPの影響調査を実施する、(2)医療費高騰をもたらすような知的財産権規定には賛成しない、(3)タバコを除外することも検討する、(4)交渉妥結期限にこだわるべきではない、といった方針を決定した。

この他の論点についてのマレーシア政府の姿勢は次のとおりである。まず、(1)SOEsやGLCsについては、国毎に異なる経済システムがあることを主張したうえで、公共財や公共サービスの提供および戦略的経済活動については例外とするよう要求する。(2)マレーシア企業が外国の政府調達に参加できる環境づくりを働きかけつつも、マレーシア国内の政府調達に関しては、中小企業やブミプトラ企業に対する優遇措置の維持を可能にするよう努める。(3)自由化促進については、中小企業やブミプトラ企業に対する自由化期間の延長や例外規定の挿入を目指す。

反対運動を受けて発表されたマレーシア政府のこのような「守り」の姿勢は、明らかにTPP反対派の意見を汲んだものである。もっとも、経済団体や労働組合、市民団体による法律や政策に対する反対運動はマレーシア政治においては珍しいことではない。にもかかわらず、ナジブ政権がここまで妥協した背景には今年5月の選挙によってもたらされた国内政治の変化がある。

長期政権を担ってきた与党国民戦線(Barisan Nasional: BN)は、下院222議席のうち133議席を確保したものの、得票率では47.4%と、野党に3.5ポイント及ばぬ辛勝となった。この選挙で、国民の福祉や民主化促進といった争点で票を稼いだ野党勢力がTPPを覇権国アメリカ主導の自由貿易レジームと位置づけ、国民の健康や生活への悪影響を根拠に反対し、現政権の非民主性を糾弾している。政府による外交の「民主化」や知的財産権およびタバコに関する対応は、野党による挑戦への応答という側面がある。

さらに、BNの辛勝を農村部マレー人票やマレー系企業が支えたことは、マレー人経済団体の発言力を一層強化することになった。MEACが数ヶ月にわたり主張していた中小企業およびブミプトラ企業に対するTPPの影響調査の実施が閣議で決定されたことは、ブミプトラ経済界の影響力の現れ以外の何ものでもない。

このような国内の勢力地図の変化を受けて、対米接近と自由化による国際競争力強化を打ち出した初期ナジブ政権の対外政策・経済政策は大幅な修正を迫られることになった。権力維持を優先し、国内グループに妥協する現在のナジブ政権の姿は、グローバル・プレイヤーの国外進出を促進し、国内の構造改革を進め、マレーシアを高所得国家入りの軌道に乗せるという初期ナジブ政権の攻めの姿からはほど遠い。

多数の「守り」のリストから、マレーシア政府は、最終的に何を守り、何を捨てるのか。交渉の行方によっては、TPP交渉離脱も現実味を帯びた選択肢となるかもしれない。

■2013.9.4 鈴木絢女

日本マレーシア学会(JAMS)