クアラルンプールで大規模デモ(2011.7.17)
(「マレーシア世界の窓」のコーナーでは、マレーシアとそれを取り巻く世界の成り立ち・かたち・動きをJAMS会員が解説します。会員の投稿を歓迎します。)

 マレーシアの首都クアラルンプールで9日、複数の非政府組織(NGO)の連合体「ブルシッ(清廉)2.0」が、選挙制度の改革を求めて街頭デモを行った。数万人が参加したとみられる。警官隊は催涙ガスなどで対抗し、多数の身柄を拘束した。(朝日新聞 2011年7月9日)

反政府デモとUMNO青年部長(福島康博)

7月9日(土)、Bersih2.0のデモがクアラルンプールで発生した。数万人規模(主催者側は5万人、政府側は6千人とそれぞれ主張)の参加者に対して、政府・警察側はクアラルンプールの交通網を閉鎖、催涙弾や放水砲を使用し1,667名の逮捕者と1名の死者を出した。この結果、1987年に野党幹部の逮捕と新聞の発刊停止に追い込んだオペラシ・ララン(Operasi Lalang)、1998年にアンワル・イブラヒム副首相(当時)を逮捕したリフォルマシ(Reformasi)、2007年にインド人の権利を求めたHindraf、および今回のデモの前身となる同年のBersihよりも、大きな犠牲をマレーシアは払うことになった。

確かに、「Bersih2.0は選挙制度改革が目的であって、政権交代を目指したものではない」、「Bersih2.0の前身であるBersihは、2007年より活動していた」、「デモの参加者は、マレー・ムスリムだけでなく民族横断的であった」といった点を根拠に、Bersih2.0と「アラブの春」との連続性や同質性を否定することは可能である。むしろ、中東諸国とマレーシアとをイスラームで一括りにして議論を行うのは、事態の本質を見失う危険性もある。民主化を求める中東諸国の事例、反原発を標榜する日本や欧州の事例など、各国で発生しているデモのグローバルな傾向と、マレーシアの個別事例の特徴とは、わけて考察する必要があるだろう。

さて、今回の一連の出来事においては、興味深い点がある。それは、UMNOのカイリー・ジャマルッディン青年部長が逮捕されたことである。事実関係を整理すると、まず、カイリーをリーダーとするUMNO青年部が中心となった運動であるPatriotは、「1)PR(引用者註:野党連合のこと)にハイジャックされているBersihの方法(目的ではなく)への抵抗を示すため、2)自分たちの民主主義の権利を実行するため」(カイリーのツイッター上での書き込み)、Bersih2.0と同じ日にデモを実施する計画をクアラルンプール警察に届け出た。しかしながら、PatriotのデモはBersih2.0と同様、警察からの実施許可は下りなかった。さらに裁判所より、Bersih2.0とこれを支持するPKR、DAP、PASの野党各党、Patriot、および同じくデモを計画したマレー系右翼団体であるPerkasaの幹部91名が、9日にクアラルンプール市内への立入を禁止する命令を下したが、この中にカイリーも含まれていた。

そして当日、カイリーやUMNO青年部幹部をはじめとする約400名が、赤いTシャツ(Bersih2.0の参加者は黄色のTシャツを着用した)を着てブキッ・ビンタン通りに集結、デモ行進を強行した(同じくデモを強行したPerkasaへの参加者は50名程度だった)。Patriotのデモ隊は、ブキッ・ビンタン通りからプドゥー通りに向けて行進し、Bersih2.0のデモ隊とわずか50mまで接近した。もしもここで両者が接触していれば、1969年の5.13事件のような最悪の事態を招く可能性もあったものの、警察(FRU)によって各デモ隊は鎮圧され、カイリーは逮捕された。彼の身柄は同日に釈放されたが、彼のツイッターへの書き込みによると、警察訓練センター(PULAPOL)に留め置かれていたという。

こうした彼の言動は、UMNOや国民世論からは、どのように評価されるのか。少なくとも本人の公式な立場としては、Bersih2.0の手法と実態に義憤を感じ逮捕も省みずに行動を起こした、ということになるだろう。これに対して警察行政のトップであるヒシャムッディン内相やナジブ首相からみれば、Bersih2.0とPatriotの双方から検挙者を出したことにより、いかなる団体・運動にせよ法に基づかない活動は取り締まりの対象であるという、断固たる姿勢を示せた。しかしながら、当のヒシャムッディン内相とナジブ首相こそ、かつてUMNO青年部長を務めた経験があり、とりわけナジブ首相はオペラシ・ラランの際に反野党デモを率いた(ちなみにヒシャムッディン内相は、2007年のHindrafとBersihによるデモ発生時のUMNO青年部長であった)。さらにさかのぼれば、5.13事件で華人と衝突したのもUMNO青年部であった。

今回もそうであったように、大規模な反政府デモが発生すると、それに対抗するかのように青年部が親政府デモを実施するのが、UMNOの歴史である。対抗デモの実施は、時の青年部長の自発的意志によるものか、あるいはUMNOの組織的な圧力が働くのか、実態は定かではない。いずれにせよ実際においては、UMNO青年部によるPatroitがデモを行い、カイリー部長が逮捕された。はたして、釈放されたカイリーに対してUMNO幹部が「お役目ご苦労」と労をねぎらったのか、実情はわからない。もしそうならば、それがUMNOにおける青年部長としての立場をわきまえた言動を取ったカイリーへの評価となろう。

これに対して、国民からのカイリーへの評価はどのようなものか。カイリー自身は否定しているものの、Bersih2.0が主張する選挙制度改革とは反対の、従って現状を堅持する立場だと、国民の目に映ったと推察される。むしろそれ以上に、Bersih2.0の参加者の規模と逮捕者がPatriotをはるかに凌いだため、Patriotが霞んで喧嘩両成敗の印象が薄くなった可能性が高い。すなわち、対立する2グループを取り締まることによって政府が民族対立を防いだというよりも、むしろ政府が反政府グループを一方的に取り潰したという構図が、国民に植え付けられたのではなかろうか。

改革を拒み、反政府グループよりも動員人数が圧倒的に少ないPatriotの指導者は、世論からの支持が低いとみなされよう。政府与党の仕掛ける2グループによる対立が、はからずも政府を支持する世論の声の小ささを露呈させてしまった。対するBersih2.0は、マレー・ムスリムだけでなく華人やインド人など広範な支持を集めることに一定の成果を挙げた。ツイッターやフェイスブック上には、ナジブ首相の主張する「1つのマレーシア」(Satu Malaysia)がBersih2.0のデモ隊によって実現された、と皮肉る意見もみられる。UMNO青年部長の今回の言動が、どのように評価・位置づけられるかは、UMNOやBN、そして選挙制度改革の動向によって左右されるであろう。

■2011.7.17 福島康博(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)

Bersih 2.0――「分かりやすい政治」へ向かうマレーシア(鈴木絢女)

2011年7月9日、首都クアラルンプールで、「クリーンで公正な選挙連合(Coalition for Clean and Fair Election)」による集会が行われた。「Bersih」(マレー語で「クリーン」の意)として一般的に知られるこのグループは、野党、人権NGO、記者団体などによって2005年に結成され、選挙委員会の独立性の確保、架空の有権者を含むともいわれる有権者リストの修正、投票時の改ざん防止インクの使用、不在者投票制度の充実、選挙キャンペーン期間の長期化などを要求してきた。2007年に行われたBersihによる集会は、2008年総選挙での連合与党・国民戦線(Barisan Nasional、BN)の勢力後退の一因となったともいわれている。

10万人規模の集会になるというBersihの予告をうけて、内務省はこの集会を違法としたうえで、Bersihのシンボルである黄色いTシャツの着用を禁止、構成団体であるマレーシア社会党党員を拘束、Bersihリーダーや野党幹部のクアラルンプール入りを禁止するなどの措置をとった。さらに、集会決行の当日は、クアラルンプールの交通が封鎖されるとともに、催涙ガスや放水車を備えた大量の警察官が配備され、Bersihや野党リーダー、赤シャツを着て対抗集会を決行した最大与党・マレー人国民組織(UMNO)青年部リーダーらを含む1000人以上の逮捕に帰結した。

妥協点の模索から対決へ

「Bersih 2.0」と称される今回の集会の狙いは、次期総選挙にむけて、選挙制度改革へのプレッシャーを強めることにあった。
現在の下院議員の任期は2013年までだが、総選挙が今年中に実施される可能性は高い。というのは、現在、与党BNには2010年以降の好景気とナジブ首相の69%にもおよぶ高い支持率という追い風があるうえ、就任から2年以上経ったナジブ首相がいまだに選挙の洗礼をうけていないという事情や、政府債務削減のために燃料や食料の補助金削減を急がねばならないという事情があるからである。

総選挙が近いという予測のもと、Bersih側は、クアラルンプールでの10万人規模の集会実施のための許可を申請した。公正な選挙を求める大規模な集会は、政府のイメージを下げることはあっても上げることはない。政府は、大方の予想通り、Bersihによる集会許可申請を却下した。

やがて内務大臣とBersihリーダーの舌戦が始まり、前者への共鳴が広がり始めると、ナジブは「穏健な首相」として表舞台に登場し、国立スタジアムでの集会を提案した。Bersihに声を上げる場を提供すると同時に、2007年の集会で見られたような街頭での警察と集会参加者の衝突を避けることを狙った提案だった。

Bersih側は、スタジアム内での集会開催には同意したが、具体的な場所として、クアラルンプール中心地により近く、また、1957年の独立宣言が行われたという意味で政治的なインパクトの大きいムルデカ・スタジアム(Merdeka Stadium)での開催を要求した。しかし、クアラルンプール中心地からのアクセスのよいムルデカ・スタジアムでの集会を許可すれば、結局街頭での集会に帰結すると政府は考えたのだろう。「穏健」カードは功を奏さず、Bersihと政府は妥協が成立しないまま集会当日を迎え、大量逮捕という事態に陥った。

ただし、政府とBersihの対決は、逮捕者数の多さのわりに、さほど激しいものではなかったようである。Bersihは、交通規制にもかかわらず5万人が結集したと発表したが、政府発表では1万人、国外メディアでも1万5千人と見積もられており、当初発表された10万人の目標を下回る規模となった。さらに、警察による催涙ガスや放水車の使用の頻度は2007年のBersih行進時よりも低く、また、逮捕者のほとんどは同日中に釈放され、拘置所内での逮捕者の対応にも細心の注意が払われるなど、警察による暴力の程度が低かったという指摘もある。政府、ひいてはBNに対する嫌悪感を助長しうるような警察とBersihとの激しい衝突のシーンがなかったことで、Bersih 2.0のインパクトはそれほど大きくなかったかもしれないという声が、集会の参加者からも出てきている。

選挙制度改革か、政権交代か?

集会から約一週間が経過したが、この間、政府、Bersih、野党やその支持者の間での非難合戦が続いている。たとえば、ソーシャル・ネットワーキング・サービスのfacebookでは、ナジブ首相辞任を求めるプロファイルが人気を集めている。野党やその支持者はここぞとばかりに政権交代を呼びかけ、他方で与党や政府閣僚は、Bersihが野党の道具になっていると難癖をつける。結局、Bersih 2.0後のマレーシア政治の主たる関心事は、Bersihの本来の目的である選挙制度改革プログラムそのものではなく、政党間の競争になってしまった感が否めない。

民主政治の質向上のための運動がもっぱら「与党対野党」という党派政治をめぐる議論に収斂してしまった原因は、Bersih内での野党の存在の大きさにある。なかでも、人民公正党(PKR)の事実上の党首アンワルのメディア露出は際立っていた。ツイッターを用いた頻繁な情報発信、警察との衝突時に負ったとされる軽症の手当を受ける様子の公表に加え、Bersihの記者会見の写真を見れば、著名なBersihリーダーの隣にアンワルが座っているものが多い。さらに、Bersih参加者の一部は、1998年にアンワルが政府閣僚を更迭された際の反政府運動のスローガンである「レフォルマシ(改革)」コールを復唱したという。また、アンワル個人のみならず、党も、地方の党員を集会に動員したり、党幹部レベルの逮捕者を複数出したりするなど、Bersih 2.0に力を入れた形跡がある。

2008年選挙以降、PKRは、役員や州政府運営をめぐる対立から多数の離党者を出し、最大野党の地位を野党連合のパートナー民主行動党(DAP)に譲った。補欠選挙や州選挙でもPKRの敗北が目立っている。このような背景から、PKRは、Bersih 2.0を失地回復の契機ととらえたのだろう 。[注1]

次期総選挙での支持獲得を目指した一部の野党とは異なり、Bersihリーダーは、この運動が政権交代を目指すものでも野党を支持するものでもなく、しばしば類似性を指摘される中東のジャスミン革命とも本質的に異なると釈明している。とはいえ、野党の動員力や影響力は明らかに大きく、与党や政府側は、もっぱら野党の戦略としてBersih 2.0を理解した。このため、党派的利益に根ざす議論が選挙制度改革を圧倒するようになったのである。

ナジブ首相は、有権者名簿や選挙キャンペーン期間、不在者投票に関するBersih 2.0の要求を考慮すると明言している。しかし、党派政治を軸とした理解が優勢であることを考えると、選挙制度改革の進展の見通しははっきりとしない。

制度の揺らぎとシンボリズム

Bersih 2.0とその後の政治を特徴づけるのは「分かりやすさ」である。「政府 vs. 野党」という党派対立に関する議論が民主的ルールの改善をめぐる議論に優越する言論状況や、黄シャツ(Bersih)と赤シャツ(UMNO青年部)が対峙する場面は、マレーシア政治のダイナミクスが二元論的な枠組みによって最もよく把握されうるようになっていることを示している。しかし、このような「分かりやすさ」は、しばしば具体的な政策や改革プログラムの中身に関する議論の成熟を妨げる。また、このような政治のあり方は、人々の動員を容易にし、政府と野党の対決を深め、野党による政権交代をめざす運動にもつながりうる。アメリカ人ならば、「政権交代がありうるということは、政治が競争的であるということであり、より民主的であるということだ」と結論するのかもしれない。しかし、分かりやすいシンボルやイメージに基づいて政権交代が起こる場合、新しい政府が望ましい統治を行うとは限らないことを、我々は既に知っている。

さらに、分かりやすいシンボルに基づく動員は、異なる立場のグループ間での話し合いや交渉の余地を狭め、健全な討論なき対決につながりうる。これまでのマレーシア政治は、与党連合内の取引や、諮問機関における政府と社会の対話など、交渉と妥協を軸に展開されてきたというのが筆者の理解だが、このような政治のあり方が変わりつつあるのかもしれない。

「分かりやすい政治」へ向かう傾向は、マレーシアに限った現象ではない。東アジアのいくつかの国では、これまで安定的であった優位政党や王制といった制度が動揺した結果として、シンボルを拠り所とする政治が台頭している。分かりやすいシンボルのもとで、人々が十分な政策論争をする間もなく動員され、分裂状況に置かれれば、交渉の可能性は限りなく小さくなり、対決が政治の常態となる。

このような政治のあり方は、より安全で自由な豊かな社会の実現へと我々を導くのか。Bersih 2.0の展開には、人ごとではない問題が内在しているように思えて仕方がない。

[注1]逮捕者の数やメディア露出度では、PKRと同様に支持を減らしつつあるマレーシアイスラム党(PAS)の存在も目立った。他方で、PKR、PASと連合を組みながらも、2008年以降着実に支持を伸ばしてきたDAPは、他の二党ほどの熱意を持ってこの集会に関与していない。

■2011.7.19 鈴木絢女(福岡女子大学講師)

2011年のBersih 2.0は2007年のBersihから何が変わったのか(伊賀司)

2011年7月9日のBersih 2.0による自由で公平な選挙を求めるデモは、マレーシアのみならず日本や欧米の報道機関もニュースとして取り上げた。もちろんBersih 2.0のデモの様子はオンラインでも話題になり、次々と画像がアップされたり、ツイッターやフェイスブックなどのソーシャル・メディアでも議論が巻き起こっている。Bersih 2.0に関しては、デモ終了後も議論が続いており、その影響がどのようにマレーシアの政治や社会に現れるかは今後の展開にも左右されると思われる。

自由で公平な選挙を求めてのデモ行進は2007年にも起こっており、その際はBersihの名称で呼ばれていた。今回は2007年からヴァージョンアップしたBersih 2.0による2回目のデモ行進となる。これまでの観察から筆者は、2007年に起こったBersihと比較してBersih 2.0には注目すべき相違が3点あったと考える。

Berish2.0≠野党?

Bersih 2.0が7月9日にデモ行進を行う前日、Bersih 2.0代表のアンビガやBersih 2.0の運営委員は、野党の党首らとともに共同で記者会見を開いた。その時にアンビガは、Bersih 2.0は翌日に予定されているデモ行進を行う前に既にマレーシア人の政治的覚醒に大きな役割を果たしたことを指摘した。この野党党首が同席した会見と、そこでの彼女のコメントは、Bersih 2.0の限界と可能性を示している。

Berish2.0とBerishとの違いは、運営主体が野党からNGOへと移り、非党派的立場から選挙制度改革を求めようとした点にある。実際、結成されてしばらくは、Bersih 2.0は選挙管理委員会との対話やフォーラムを通じての市民への啓蒙活動を続けた。ただし、独立委員会ながら、依然として政府の強い影響下にある選挙管理委員会にはBersih 2.0の求める制度改革を実行することができないままであった。

Bersih 2.0の活動の転機となったのは4月のサラワク州選挙である。この選挙において郵便投票に対する不満から批判を強めたBersih 2.0は、2007年に続いて再びデモ行進によって局面を打開する戦略に出る。デモ行進の計画を最初に持ち出したのがBersih 2.0側か野党側かは分からない。野党側ではPASはデモ行進にかなり積極的で、5万人の動員をかけるとも豪語していた。また、野党PKRの指導者アンワールは、Bersih 2.0を主導しようとした(或いは主導しているように見せようとした)形跡がある。アンワールは6月19日のPKRの会合で、もしナジブ首相が選挙制度改革を約束するならばBersih 2.0の代表アンビガに活動をやめさせるよう呼びかけるとコメントした。このアンワールのコメントに対し、アンビガはすぐに不快感を示し、Bersih 2.0の活動方針を決めるのは自分たち運営委員会であるとコメントしている。

政府・与党によるBersih 2.0の批判の最大のポイントは、Berish2.0が純粋な選挙制度改革を求めているのではなく、来るべき総選挙のための野党による党派的な選挙キャンペーンであるとした点であった。アンビガらのコメントに見られるように、少なくともBersih 2.0の中核メンバーは政府・与党からの批判も意識して、野党との間に一線を引いて初期の非党派的立場を維持しようと試みていた。

しかし、非党派的立場で始まったBersih 2.0の活動に限界があったことは否定できない。そもそも、デモ行進を行うと決定した時点で、現在のところ実際に参加者を大量動員できるのは野党でしかありえない。また、デモ行進日の7月9日が近づくにつれ、Bersih 2.0の活動家が政府によって大量に逮捕され、アンビガらBersih 2.0の運営委員個人への脅迫も相次ぐ中で、個人や十分な組織化がされていない団体が活動を続けるには困難があった。

その帰結がデモ行進日前日の野党党首らとの共同の記者会見であったと言えよう。ここでアンビガは、野党党首との共同記者会見を行った理由として、デモ行進日を前に400人を超えるBersih 2.0の活動家の逮捕に対する政府・BNへの抗議とともに、自身の身の安全を挙げている。Bersih 2.0はBersihとは異なり、非党派的立場から活動を始めたものの、実際の活動を進めていくうえでは限界に直面することになった。

デモ行進前からの争点化

2007年のBersihとBersih 2.0が異なる2点目は、実際に7月9日のデモ行進が行われる1か月前からネット・メディアだけでなく、テレビ、新聞などの主流メディアでBersih 2.0とその関連する活動が盛んに報じられ、争点化されてきた点である。2007年のBersihのデモ行進を主流メディアが積極的に取り上げたのは、実際にデモが起こってからである。2007年当時の主流メディアでは、デモに対する政府指導者による事前の警告等は見られたものの、Bersih関連の報道の絶対量は必ずしも十分ではなかった。

しかし、今回のBersih 2.0の活動については、デモ行進の1か月前から(その報道の姿勢はどうあれ)主流メディアでもかなりの量の報道がなされてきた。今回のBersih 2.0をめぐるデモ前からの報道が主流メディアでも活発だった理由は、2007年のBerishのデモ行進が翌年の総選挙の結果に影響したという前提があったためである。それに加えて、Bersih 2.0の代表として明確なメッセージを発信し続けることができたアンビガの存在、(メディア報道の観点から見ての)「敵手」が存在したことや、予想外のアクター(=国王)の登場がBersih 2.0をめぐる報道を活性化したことなども無視できない。

報道においてBersih 2.0の「敵手」となったのは、UMNO青年部と、無所属の下院議員のイブラヒム・アリが率いるプルカサである。両者ともに、Bersih 2.0に対抗して7月9日にデモ行進を行うことを発表した。Bersih 2.0も含めて、この3団体は警察にデモ行進の許可を申請したものの、却下されている。さらに、Berish2.0がシンボルカラーとして「黄」シャツを着用したのに対し、UMNO青年部が「パトリオット」の活動プログラム名の下で「赤」シャツを着用したことは、隣国タイの状況と合わせて、メディアが報道しやすい構図を作り上げることになった。

さらに、国王が7月3日にBersih 2.0に対し、その本来の意図は評価するものの、デモ行進の実施には反対し、中止を求める声明を発表する。この国王の異例の声明でBersih 2.0のニュースとしての価値はますます高まった。他方で、デモ行進の最終目的地を王宮に定め、選挙制度改革を求める文書を国王に提出するパフォーマンスを目指していたBersih 2.0にとって、この国王の声明は、デモ行進の正当性や意義を大きく動揺させることになった。結局、Bersih 2.0は緊急の運営委員会で国王の声明を受け入れることを決定し、7月5日にはアンビガを含むBersih 2.0の代表3名が国王と謁見し、Bersih 2.0の立場を説明することとなった。国王との謁見後、アンビガは街頭でのデモ行進を取りやめ、ムルデカ・スタジアム内でのデモを発表した。

後から見れば、この国王の声明が発せられ、Bersih 2.0の代表が国王と謁見することを果たした段階で、今回のBersih 2.0の目的の大半が果たされたとも言えるだろう。1か月弱の間、国内の話題の中心にあったことで、Bersih 2.0は国民の間で認知度を高め、その意義を国王にも公式に認めさせることができた。7月8日の野党党首との共同会見でアンビガが述べたように、国民の政治的意識の向上に寄与することができたと言えるだろう。

ただし、Bersih 2.0が申請したムルデカ・スタジアム内でのデモは、結局政府に却下される。そこで、Bersih 2.0はムルデカ・スタジアムに向けてデモ行進を行うことを発表し、7月9日を迎えた。

衆人が見守るデモ行進――メディア・ポリティクスの時代

ムルデカ・スタジアムに向けてのBersih 2.0のデモ行進参加者の人数は、1万人から1万5千人とも言われ、2007年のBersihの半分かそれ以下に留まっている。だが、今回のBersih 2.0の国内外のメディアの注目度は前回より格段に高い。Bersih 2.0が前回以上にメディアに注目された背景には、上述のように、実際にデモが行われる前からBersih 2.0がニュース的価値の高い話題であった点や、当日に1600名を超える逮捕者が出た点などの他にも理由がある。

今回のデモ行進と2007年のデモ行進の映像を見比べて分かるのは、今回のデモ行進ではカメラを手に撮影する人間が明らかに増えている点である。この「カメラマン」を構成する人々の中には、国内だけでなく海外の報道機関からのジャーナリストが数多く含まれている。また、今回のBersih 2.0のデモでは、海外の29の都市でBersih 2.0のデモが行われたという。Berish2.0は国内に留まらず、グローバルな規模で人々の注目を集めようとし、それに成功したと言えるだろう。

「カメラマン」の中には、首から報道パスを下げていない人も多いが、この人達は専門職ジャーナリストではなく、いわゆる「市民ジャーナリスト」であると考えられる。2007年のBersihのデモ行進でも、ブロガーによる情報発信が人々の注目を集めたが、オンラインを通じた市民ジャーナリストによる情報発信は、今回のデモ行進でもますます拡大していることが観察できる。ツイッターやフェイスブックなどのソーシャル・メディアで現在も盛んに行われているのは、当日のデモ参加者の体験や感情の共有である。今後、Bersih 2.0がどのように評価され、実際の政治過程に影響を与えるか否かを見極めるには、新聞やテレビの報道とともに、こうした市民ジャーナリストによるオンラインでの議論にも注目する必要性が高まっている。

ナジブ首相がデモ行進の翌日、直ちに行ったのは、自らデモの現場に行き、人々と触れ合っている姿をメディアを通じて広めることであった。他方で、アンワールはデモ参加によって自身が負傷した姿を複数のメディアを通じて広めようとした。シンボルカラーを使って視覚に訴える形で動員を行ったBersih 2.0とUMNO青年部とを併せて考えるならば、現在のマレーシアは、メディアを通じたパフォーマンスやイメージの喚起によってテレビ画面やモニターの向こうの人々に「どのように見られるか」が重視されるメディア・ポリティクスの時代により一層突入しつつあると言えるだろう。

■2011.7.26 伊賀司(神戸大学研究員)

日本マレーシア学会(JAMS)