アンワール元副首相を逮捕 (2008.7.16)
(「マレーシア世界の窓」のコーナーでは、マレーシアとそれを取り巻く世界の成り立ち・かたち・動きをJAMS会員が解説します。会員の投稿を歓迎します。)

マレーシア警察は16日、野党指導者で人民正義党(PKR)顧問のアンワル元副首相を同性愛行為の疑いで逮捕したと発表した。同氏は容疑を否定しており、与野党の対立激化で政情が一段と緊迫化しそうだ。(時事ドットコム 2008年7月16日)

逮捕前夜(辻修次)

 90年代末の政変の背景に、アジア経済危機という経済的なリスクの高まりがあるように、08年のバリサンナショナル敗北とアンワル逮捕も、国際的な原油価格の急騰と米国でのレバレッジ金融の混乱による経済的なリスクの高まりが背景にある。では、今回の政治劇に国際的な経済環境がどう影を落としたのか。アンワル逮捕に先だつ状況を概観する。

1.インフレ圧力

 3月の総選挙時に、各地の演説会場などで主な争点とされていたのはガソリンと食料品の価格高騰だった。つまり、インフレへの懸念が選挙民、ことに低所得層にとって、もっとも身近で重要な関心だった。そして、今日までこの懸念は悪化傾向にある。原油の国際価格は、3月の時点ですでに数ヶ月上昇を続けていたが、まだ1バレル100ドル前後だった。その後、4ヶ月のスパンで原油の国際価格は1バレル148ドルまで約1.5倍に上昇した。さらに、先物市場では食料価格の高騰も続いた。つまり、インフレ圧力はこの期間、緩和されなかったといえる。特にマレーシア国内のエネルギー分野では、補助金見直しによるガソリン価格の4割値上げや、電力供給会社への課税強化など、与党の対応が政治的な争点であり続けた。国際的な商品相場が高騰する状況で、人々が、課税や補助金の削減など、その状況下で行われた政治選択に問題を帰属し、否定的な論調を強める構図は日本の揮発税問題と共通している。

2.諸刃の刃

 他方でマレーシアは、商品相場の価格が急落した場合も痛手を負う。現在の国際的な一次産品高は原油、天然ガス、ヤシ油の輸出価格を大きく引き上げ、マレーシア経済を支えてきた。トレンガヌやサラワクなど、いくつかの特定の州では、この資源高が特にプラスに働いてきた。今後引き続き欧米の景気が下ぶれしたとしても、資源高が続き、原油・天然ガス・ヤシ油が高値で取引されれば、電機電子製品や観光の需要減少の影響の一部が緩和される。このように、産油国マレーシアでは、商品相場高は諸刃の刃である。もとより不確実性の高い商品市場の値動きが政争につながることに、非常に敏感にならざるを得ない状況が続いていた。

3.途上国プレミア

 さらに、資本市場においては、新興国・途上国の債権に対するリスクプレミアムは上昇を続けている。これは、米国でのレバレッジ金融の混乱による大きなリスクが解消されず、世界的に資本市場の先行きが不透明な中で生じている一般的な現象だが、マレーシアの経済メディアにおいては、政変のリスクがプレミアムを不当に引き上げているという見解が流布していた。ファニーメイとフレッディーのアメリカ連邦保障債権の問題の浮上以後、政治リスクに対する嫌悪感はさらに強まっていた。

■2008.7.17 辻修次(マラヤ大学)

アンワル逮捕・保釈の裏側(伊賀司)

 おとといから昨日にかけてのアンワル逮捕から保釈の一連の報道はビックニュースだが、実際のマレーシア政治へのインパクトはそれほど大きくないのではないか、と私は考えている。つまり、前回1998年にアンワルが逮捕礼状なしで容疑者を拘束することのできる国内治安法で逮捕されたときと比べると、既に「死に体」になりつつある今のアブドゥラ政権の側には、事態を大きくする力も、意思もないだろう。

 アンワルの側は警察の取り調べに不満を述べているが、とりあえず、手続きに沿って逮捕と保釈が行われたといってよい。1998年のときはマハティールがアンワルの政治生命を完全に亡きものにしようとする意思を持ち、どんな非難を受けても動じる気配を見せなかった。今回のアンワルの逮捕をめぐる一連の動きは、1998年のときのような致命的なダメージを与えるような意図には基づいていないと思う。

 今回のアンワルの逮捕にまで至る一連の動きは、(1)アンワルの同性愛疑惑を再び持ち出すことで(マレー人を中心とした)従来の与党支持者の離反を食い止めることを狙った、(2)ナジブ副首相とその妻がモンゴル人女性通訳殺害事件に関与したとされる報道に対し、それへの対抗上アンワルの同性愛疑惑を持ち出した、という2点が考えられる。

 アンワル支持者からなる野党・人民公正党(PKR)のコアな支持者については同性愛疑惑を持ち出すことは、逆に支持者の勢いを増すことになるのだが、問題となるのは現在、与党と野党支持の間で揺れている「サイレント・マジョリティ」の側であろう。今月はじめに行われた石油値上げ反対デモ集会に出席するような野党のコアな支持者に対して、一般の国民の多くは与党政治に対して不満を持っているものの、未だ野党への政権交代には不安があると思う。3月の総選挙では野党が大勝したために、国民が積極的に野党の側を支持したようにも受け取る向きもあるようだが、恐らくそれは違っているだろう。私が3月の選挙の際、現地で見聞きした限りでは、「アブドゥラが頼りない」、「アブドゥラが2004年の選挙で約束したことを守れずに改革が後退している」といったアブドゥラ本人の指導力や政権運営への不満が大きかったように思う。3月の選挙では与党の政党マシンを構成する人たちがぽろぽろとこぼれて野党側に寝返っていったようだが、それも「今回だけは与党に投票できない」という人たちが多く、アブドゥラの指導力に疑問を呈する人はいるが、与党政治に依然として未練がある向きが強かったと思う。

 したがって、こうした与党政治に未練を持っている有権者たちを野党側がひきつけるには、既に「死に体」となりつつあるアブドゥラよりも次の首相となるはずのナジブの信頼性や指導力の欠如を露呈させることで彼を引き摺り下ろし、ポスト・アブドゥラの与党政治も信頼できないことを強くアピールする必要がある。野党側がモンゴル人女性通訳殺害疑惑をとりあげ、仕掛けていったのもこの文脈において考えるべきである。それに対抗する形で、ナジブの次に首相の座に近いアンワルへの個人的な性癖の疑惑を問題にしたのが与党側であったといえよう。

■2008.7.18 伊賀司(神戸大学大学院)(http://d.hatena.ne.jp/coldoven/)

日本マレーシア学会(JAMS)